こちらの記事は、シリーズ第5回最終回でして以下の記事の続きとなります。
きゃりーぱみゅぱみゅは、希望のアイコンであるというくだり、超オモシロイですよ。
きゃりーぱみゅぱみゅと原宿カワイイはこうして世界に広がった(4)~Kawaiiがグローバルになったわけ
コムデギャルソンからカラフルの原点は商店街へ
一連の記事でご紹介しておりますように、ここでも増田セバスチャンさんが登場します。
きゃりーぱみゅぱみゅのアートディレクターとしてつとに知られた方であり、ある意味彼女の生みの親とも言ってもおかしくないのではとつくづく感じながらこの記事を書いております。
時代は増田セバスチャンさんの子供の頃に戻ります。
そこは商店街であって、都内の商店街を歩いていて特に下町なんかでは今でも名残を感じるものに、けっこう商店街には原色のモノがちりばめられています。
お菓子の箱とか、おもちゃ屋さんで売ってる箱とか・・・・
モヤモヤした地域を街歩く番組、『モヤモヤさまぁ~ず』をご覧になったことのある方なら雰囲気をさっとご理解いただけるかもしれませんね。
で、増田セバスチャンにとってのリアルはなんだったのか、という話です。
彼にとって、現実感溢れ納得いくリアルは原色溢れる世界だったわけです。
商店街に育った彼は、そこにこそ安住感といいますか、自分にとってのリアルがあったわけですがなかなかそのことを理解してくれる土壌がありませんでした。
なぜなら世の中、流行っていたのがモードであり、コムデギャルソン的な黒の世界だったからです。
DCブランドが主流だったバブルのころから90年代にかけての話です。
日本の歴史はモノトーンとカラフルの両立
ジャーナリスト佐々木俊尚さんによると、日本文化の歴史を振り返ってみたとき
モノトーンと派手な世界が実は両立してきたということです。
モノトーンとは、鎌倉時代の禅的な文化に代表されるもので、現代の事例では無印良品に受け継がれているようなものです。
一方で派手な文化は、歌舞伎やさらに遡れば安土桃山や室町時代の「傾く」文化の流れがそれであって、いまはヤンキーとかヨサコイソーランに引き継がれているようなものです。
佐々木さんは『日本はこの両極端の文化がずっと並行してきたんです。それは、武士の文化と町民の文化の違いなのかもしれません。』と読み解いています。
1980年代から1990年代というのは、こういった観点からすると禅的なモノトーンのほうばかりに軸足が置かれていた不思議な状況でもあったわけです。
増田セバスチャンさんが6%DOKIDOKIをオープンしたのは、ある意味こういった不遇の時代でもありました。1995年です。
彼自身も『あの時代は、窮屈でした』と言っています。
そして『お店開いたところでお客さんは誰一人来なくて、毎日店番して売上ゼロ円。夜は、テレビ局の大道具の仕事をして朝まですごしてました。お店は小さな雑居ビルの一室で、でもお店って形態をなしてなかったと思います。』だと。
下積みという言い方とはちょっと違いますが、寒さに芽が開く季節までじっと耐えている
花のような・・・そんな不遇のときは多くの方が人生で経験されることのひとつであり、私にとっても深く刺さってきました。
震災後の希望のアイコン
その後・・・・第4回で紹介したように、強い要望を受け世界への行脚の旅(笑)に出るわけです。
2010年くらいまで各国の女の子たちとワークショップしながらファッションショーでメインストリートを練り歩くというあれです。
そのムーブメントですけど、増田さんによるとその後のスピードが出なかったということです。
次どうしよ・・・と思っていた矢先に起こったのが2011年のあの大震災です。
私は関東圏に住んでいますので、このときの物理的衝撃と心理的衝撃はすさまじいものでした。
原発の爆発事故のときは、学生時代にその方面の勉強も熱心にした覚えがあって知識だけは豊富でしたので、そのニュースを聞いた瞬間にまさしく日本は終わったと実感したほどです。
もう無理だ、これからは最貧国へ逆戻りになるな・・・と思いました。
当然ながら、原宿の街にも誰もいませんね、こんなとき。
しかも節電で真っ暗でコンビニにもほとんど何もありません。
増田さんのところには海外の女の子からたくさんメールが来たということです。
「原宿も津波で流されたんじゃない?」
「私たちが好きなポップカルチャー、日本のポップカルチャーも全部なくなってしまったんじゃないか」
「セバスチャン大丈夫?」
・・・・とこんな調子で。
いよいよ海外メディアからもシビアな目で見られているとき、つまり日本は本当に立ち直れるのか?という目で見られていたときです。
このとき注目を集めたひとつが、原宿のカラフルなファッションだったということです。
原宿の女の子たちが、日本の未来と紐づけられて見られるようになりました。
そしてまさにこのタイミングで登場したのが、誰あろう、もちろんきゃりーぱみゅぱみゅでした!
彼女が使ったのはYouTubeでした。
彼女がYouTubeの力を使い、一気に拡散して世界に広がったわけです。
世界の人々は、なんとなく日本全体は津波や原発事故で苦しんでいるけども原宿は元気そうじゃない、って感じてくれたようです。
だからこそなんですよ。
きゃりーぱみゅぱみゅは震災後の希望のアイコンなのでした。
きゃりーぱみゅぱみゅと村上春樹の共通点を探る
きゃりーが希望のアイコンとして広がった背景には、もうひとつ隠れた当時の心情を知ることが大事です。
多くの日本人は、私も先ほどそう書いたばかりですけど震災によって、明日ってないかもしれないってことを真面目に考え始めました。
あなたはどうでしたか?
明日も希望をもって頑張ろう・・と震災直後に思えた人は、表面的なことを超えてもしかしたら震災をダイレクトに蒙った人か、捜索などにあたった自衛隊関係者であるとか、とにかく身近で大切な人などを失った人だけが言える言葉ではなかったのかと今でも思います。
ただ、明日ってないかもと普通に感じた人の中には、
「明日がないんだったら、自分の好きなことをやろう」って考えもありました。
それを昔から地でいってる一部の人たちがいました。
それが原宿の女の子たちで、こういった思いがきゃりーのYouTubeも加勢して一気に世界中に拡散されていきました。
明日がないなら、とりあえず自分の好きなことをやろうというのは、
『いまこの瞬間がいつまでも続いて欲しい』というマインドの表れとも言えます。
ちょうどランナーズハイのような、いまこの瞬間の気持ちよさだけを求めるマインドです。
だんだん成長して素晴らしい人物になっていくとかではなく、今この瞬間を切り取り、それが続いて欲しいといったマインドです。
実は村上春樹さんの世界はこれと似ています。
彼の世界では主人公は成長しないし、いまのこの世界がどう成り立っているかという、その構造だけを描いていることに特徴があります。
時間軸に沿って何がどうなったというシナリオではなく、今この瞬間にある空間構造を描こうとしている点に大きな特徴があります。
そしてこれこそ、きゃりーが震災後やってきたのがうまく当てはまります。
彼女が演出する空間というものがあって、その瞬間がいつまでも続いて欲しいという気持ちよさを追求したのがある意味きゃりーの存在であり、アイコンの意味ではないかと。
いかがでしょうか。
何事も原因なしに結果が無いことは物理法則としても知られていることでして、原宿カワイイがただ意味もなくふと沸いて出てきたのではなく、しっかりした文脈の中で進んできたという事実に私は大きな感動を覚えました。